左手が軽く痙攣を起こす。そして滑るように弓は手を離れて弦をかき鳴らしてから床に落ちた。
痙攣が治まったかと思うと次に左の腕から下がうっすらと透けて見えて慌てて意識を集中する。

もう、無理か。

ルークはため息をついてヴァイオリンを大事そうに執務机の上に置いた。アッシュが好きだといってくれた弦の音をもう一時も奏でられないでいる。
本来消えるはずだったこの身を無理を言ってローレライに繋ぎとめてもらった。けれどその身もアッシュと距離を置くようになって、こうやって再び乖離の症状が現われることが多くなっている。



ルーク、と初めて名前で呼んでくれた時のことは今でも覚えている。
初めて手を繋いだ時の事や、皆に内緒でこっそり夜抜け出して逢っていた事も、つい昨日の出来事のように鮮明だった。


けれど、夢はもう終わるのだ。


人ならぬこの身がほんの小さな、一撮みの夢でさえも望むことはいけない事なのだと思い知ってしまった。それほどまでに世界のレプリカに対する対応は酷い。公爵やアッシュの居ないところで嫌がらせも数え切れないくらいたくさんあって、例え英雄と呼ばれはしていても所詮レプリカなのだ。人とは違う、けれど人の形をした何か。
それでもアッシュが傍で支えてくれていたからあの頃は平気だった。体調を崩したインゴベルト王がアッシュを後継にと言うまでは。
悩みつくして、消えることを承知でアッシュと別れを決めた事も後悔はしていない。
アッシュとナタリアが婚姻したのはもう2年も前のことである。去年の暮れに待望の世継ぎも産まれ、アッシュもナタリアも幸せそうだった。
これで良かったのだと、どこかで思っている自分も本物で。





弓を取ろうと、床に手を伸ばす。
かた、と入り口で音がしてルークは目を上げた。
「父上」
硬い、少し青ざめた顔で、クリムゾンは立ち尽くしていた。
「いつからだ・・・?」
震えた声。
「アッシュ・・・・・・陛下が御成婚されてからです」
ルークは弓を取り上げ、軽く握り締めた。
「父上。俺は・・・」
「・・・ルーク」
名を呼び以前より細くなった肩を掴む。
「私達はいつもお前を犠牲にしてしまっているのだな…」
「俺は、でも感謝しています。こんな俺を息子として扱ってくれて・・・」
置かれた手をそっと肩から外してルークは父の大きな掌を握り締めた。
「俺、父上と母上の子供でいられて嬉しかった」
「お前が何と思おうとお前は私達の立派な息子だ。誇りに思っている。けれど、やはり私はお前にも幸せになって欲しかった」
より一層強く大きな掌を握り締めルークはすいません、と小さな声で呟いた。
その手を名残惜しげに離しルークは机に置いたままだったヴァイオリンを手に取ると、クリムゾンににこりと微笑んだ。そのまましっかりした足取りで部屋を出て行く。



その後姿がクリムゾンの見た彼の最後の姿となった。





                                          20090806

この話は弦は夢を紡ぐの前部分(?)になります。
終わり方がしっくりこなくて…余裕が出来たら修正入れたいと思います。