あれはいつのことだっただろうか。
掴めそうで掴めない夢のように儚い幻だったのかもしれない。



暖かな日差しの中、柔らかな弦の音が鳴っていた。開け放たれた室内の窓を背に若く、端正な面立ちの少年がだらしなくもたれかかっていて、けれどその格好がその人には似つかわしくないほど様になっていた。
いつもは鋭いであろうその双眸は、その時だけは優しく愛しげに弦を奏でる奏者にのみ向いていた。
その奏者の白い指先から美しい旋律がうみだされている。
奏者は少年と同じ顔の造りをしていた。ただ違うのは少年より少し幼い面立ちと綺麗な朱金の髪をしていることだった。
奏者を見ているのは今よりも幾分か若い父だった。
技巧的ではなく、バチカルに古くから伝わるゆったりとした曲がただ緩やかに流れていた。
不意にヴァイオリンを奏でている弓がカランと音を立てて滑り落ち、哀しそうに朱の彼が落ちた弓と己の腕をを見ていた。
父が落ちた弓を拾い上げ何事かを言った。朱の彼は困ったように微笑んで唇を開いて。


そこで、景色は途切れた。
あれは誰だっただろうか。ヴァイオリンを奏でていた人は。
おぼろげだけど知っているような気がする。
夢にしては鮮明で、けれど現と信じるにはあまりにも不確かな・・・。



荷物を動かしてばたばたしているメイドたちの目を盗むようにして、カレルは一人王宮の奥へと向かった。面立ちは英雄として謳われこのキムラスカ・ランバルディア王国の王である父・アッシュに、金色の鮮やかな髪は母・ナタリアに似た少年である。
階段を上り、足早に今は使われていない一室に向かう。
彼の心は、今はたった一つのもので占められていた。今朝方メイドたちが片付けていた荷物のなかに見えた上質なケースに。
誰もいないことを確認して一番奥にある部屋にそっと忍び込んだ。
カレルはきゅっと手を握り締める。
望んではいたけれど、何一つ自分を妨げるものが無いかと思うと急に緊張が走る。
目当てのものを見つけて、おそるおそる手を伸ばした。
鼓動が早くなり、掌の内にじんわりと汗が滲み出すのが分かった。
それでも。
どうしても確かめたかった。靄のかかった記憶と結びつくかもしれないそれを。
ごめんなさい。
そう心の中で呟いて、ケースを開いた。

あぁ、これだ。

十歳の少年からしてみれば重くずっしりとしたそれを、そろそろとひっぱりだす。
手が震えていた。

やっぱりそうだ。

幻のようであった光景が一瞬のうちに鮮やかに蘇る。
流れる柔らかな音色と、場を包んでいた暖かな空気。名を知らぬ朱の奏者とその彼を愛しそうに見つめる父の姿も。
「夢じゃ、なかった」
その呟きが全ての音に変わる寸前。
「そこで何をしている?」
扉のところからかけられたよく通る声にカレルの心の臓が跳ね上がった。


父上っ!?


手にしたものを思わず後ろに隠して身体だけ扉の方を向けた。
「カレルか?」
訝しむように目を眇めて近づいてくる父親の姿をカレルは瞬きするのも忘れて凝視していた。
「どうした、こんなところに入り込んだりして
一歩、一歩と近づきカレルに迫ってくる。
「何をしている?」
「あの・・・」
カレルは必死に言葉を探したが、何も浮かんではこなかった。
「えっと、その・・・」
カレルが言い淀むうちに、アッシュはその背後にある楽器のケースが開いていることを目に留めた。
いつも皺を寄せている眉間にさらに皺が増える。
「カレル、お前何を・・・!?」
カレルはアッシュが自分の後ろに隠されていたものを目にしたのを知った。
凍りつく表情。
そこに見えるのは動揺と。

深い哀しみ。

胸が張り裂けそうに、痛い。

後悔が押し寄せた。父の顔に浮かんだあらわな感情。初めて目にする深い傷みに。
心が悲鳴を上げる程に、痛い。
けれど、カレルが声を発しようとしたときにはすでにいつもの父に戻っていて、いっそう胸を締め付けられた。
アッシュは少し困惑げに。
「変わったものを見つけたな」
「・・・ごめんなさいっ!!!」
カレルは床に額を押し付けて。
こみ上げてきたものを抑え込もうとして、声が上ずった。
「カレル・・・?!」
驚いた声が自分の名を呼ぶのを聞いた。そしてそっと両の肩を掴まれるのを感じる。
「カレル」
父の翡翠の瞳を、滲む視界の端で捉えた。
「何故泣く?俺はまだ何も言ってない」
アッシュは両膝をつき、指先でカレルの涙を拭った。
「何故そのヴァイオリンを持ち出したか、理由を聞いてもいいか?」
「父上っ」
カレルはアッシュに抱きついてもう一度ごめんなさいと繰り返した。





「その頃は、まだ母の腕に抱かれる赤子にすぎなかったはずなのに」
アッシュはカレルをローチェストの上に座らせ、その隣に腰を下ろした。
「その瞳はルークが来てくれたときのことを焼き付けていたのだな」
まだ微かに濡れているカレルの目を見つめ、しみじみとした口調で言った。
ルーク、と口にした声音がどこか甘い切なさを感じさせる。



      ルーク―――



ヴァンのレプリカ大地計画、瘴気やレプリカ問題で混迷した時代の英雄の名だった。父のレプリカにして第七音素の集合体ローレライの同位体、そしてまた唯一無二の存在だった人物。
どんなにその人が父にとって大切な存在であったのかを教えてくれるのは、いつも母や祖母や父の近しい人たちで、父自身がルークとのことを語ってくれることは一度もなかった。
ただ数度しか聞いてはいないが、父はその名を、聞いたこちらが切なくなるような響きで呼んでいた。
それで・・・・・・と、カレルはうなずいた。父に似ていると思ったのも当然、そのレプリカであったのならば。
「ずっと臥せっていたあいつが、気分がいいからとヴァイオリンを持ち込んで演奏してくれた。確かにお前も同じ部屋にいた。ナタリアの、母の腕の中に」
手にしたヴァイオリンを愛しそうに撫でた。
「このヴァイオリンは俺があいつにあげたものだ。ナタリアに剣術以上ににヴァイオリンの名手だと聞いて。だが、あの日以来ずっとこれは眠ったままだ」
「どうして」
ごく自然に沸きあがった疑問は、カレルがそれと意識する前に唇をついてでた。
「・・・弾き手が居ないんだ。あいつは・・・あいつはあの日消えてしまった。どこを探しても、もう居ないんだ・・・。記憶すら自分で抱えて、何も残さずに・・・」
ぽたり、と雫が床に染みを作る。
父は、泣いていた。声を押し殺して。
「すまない、少し、一人にさせてくれ・・・」
立ち上がり、自分に背を向けてもなお父は涙を流し続けていた。彼のヴァイオリンを胸に抱いて。
カレルはそんな父の姿を目に焼き付けながらもそっと部屋の扉を閉めた。


ふと母が昔自分に話してくれたことを思い出した。
誰よりも優しい彼は国の、自分の為に犠牲になったのだと。
王室の存続の為に、心から愛する人を突き放したふりをして。
彼はまるで鳥の番のように、半身をもがれて通常ではありえない速さで急速に乖離を起こしたのだと。
あのヴァイオリンは父に唯一残された形見なのだと。




日も暮れて辺りが夕闇に包まれようとする頃、カレルは父に呼ばれた。

「これが気に入ったのなら、お前が弾いてくれるか?このヴァイオリンもずっと眠らせておくよりは、その方が嬉しいだろう。きっとルークも喜んでくれる」
アッシュは微笑んだままヴァイオリンをカレルに差出す仕草をする。カレルは唇を堅く結び、激しくかぶりをふった。
「これは、父上の・・・あの人の心、だから」
押し出すような声で、かろうじて答える。
「そうか」
アッシュはやはり笑みをみせていた。そのままヴァイオリンを絹布に包む。
と、外の方から細くカレルを呼ぶ声が聞こえてきた。少しずつ近づいてくる。母の声だ。
「大丈夫か?」
ケースにしまいこみながら、彼はカレルを振り返った。カレルはうなずく。
「先に、行ってます」
カレルは扉の方へとまっすぐに向かった。飛び出して、母の呼び声に応えようとする。
その時。
幾度となく繰り返された夢の光景が目に浮かんだ。
落ちた弓を拾い上げながら父は言った。


―――無理はするな。俺も皆もお前の傍にいる。だから、もっと生きようと願ってくれ。永遠に俺はお前の事を―――


それに対して朱の彼は困ったように微笑んで口を切る。


―――ありがとう、アッシュ。このヴァイオリン大事にしてくれよ。それだけでいいんだ。だから、アッシュはナタリアやその子を愛してやってくれよ。俺はアッシュにたくさんの愛をもらったから、だから―――

もういいのだと、透ける身体で微笑んだ彼の顔は儚く綺麗で。
いつもと同じに幻は不意に途切れる。
カレルは縁のところにつっ立ったまま、息をついた。
「そうか、そうだったのか。あの人は・・・」
また、熱い何かが胸の内から沸きあがってきた。それを彼は深呼吸一つで抑える。足音が近づいてるのが分かったから。
「カレル、どうかしたのか?急に立ち止まって」
「カレルはアッシュを振り仰ぎ、にこりと笑う。
「ううん。なんでもない」
そう答えると彼は、過廊に姿を見せた母親の元へと駆け出した。




                                            20090627


どこまでも自己犠牲なルークと必死にルークの遺言(?)を守ろうとするアッシュの話ですた。分かりにくいですよね、ゴメンナサイ。